動画に関連して、数学科の話と数学研究の話

 先日(12月中旬)、イベントバーエデンに行ったときに、現在の店主であるところのいさおさんにお会いして、動画を撮ってもらった。
www.youtube.com
 そこには全く別用で行っており、数学科を出ている旨をお話ししたところ、その場で即撮影(閉店後に)だったので、とりあえず思いついたことを散在的に話している動画になっている。あちらとしてはある程度やり方が決まっているのだろうけど、すぐにやってみることができる機動力は、それ単体で見習いたいものである。
 世間の皆さんがそこまで数学に興味がないのは知っているので、1000~3000再生くらいじゃないのという気持ちで話していたが、蓋を開けてみれば3万再生に届かん勢いになっており、ありがたいやら恥ずかしいやらといった心持ちである。数学に興味はなくても、数学科やそこを出た人には少し興味があるということなのかな。酒を飲んで曖昧になった人が話している動画がそんなに再生されているのはウケる。今回は、いろいろと曖昧になってしまった部分について、動画の内容を補足する。
 ――という内容で、ひとつ書きたかったのだけど、もたついている間に(たいして忙しくもないのにね)もう一度いさおさんに会い、動画を撮る流れになった。つくづく優秀な人間は行動力が桁違いだと思わされる。今回はその動画からも漏れた内容とか、とりあえず書きたいことを書くことにする。

 タイトルに修士と入っていて、経歴に偽りはないのだけど、動画の中ではほとんど学部の話をしている。優秀な人間はおいておくとして(年齢における優秀さの上限はないので、上の話をすればほぼ何でもあり)、ごく普通の数学科修士だと、修士論文が最初の論文というのが一般的ではないかと思う。これはもちろん分野にも大きく依る。
 最初のアウトプットが修士論文、すなわち飛び級などをしない場合、最短でも24歳が最初のアウトプットというのは、遅すぎるのではと思われるかもしれないけど、先端に至るまでの勉強が簡単ではないからと思っていただいてよいだろう。もちろん細々とした発表会の類を含めればもう少し前からアウトプットはあるということになるが。
 つまり修士といえど、そのほとんどの時間は研究ではなく勉強をしているということである。従って、コメントにも指摘があった通り、研究について語ることなどほとんどない。動画の中で研究の仕方について触れてるのは、「定理の輪郭が云々」といった部分だけだ。じゃあ、それより上の人たちがどういう感覚を持って研究に臨んでいるのかというと、そのことについて書かれている文章はあるが、端的に言うと「よくわからない」。万人にわかるような言語化ができるとは思えないし、数学者のある意味での”商品”であり、共有でき得ないからこそ、その数学者が研究する意味があるものだと考える。そもそもそれを共有する必要もなく、たとえ途中までは指導教官に倣い、同じように研究を行ったのだとしても、あなた自身が独立した研究者としてやっていくのであれば、感覚の部分では師匠とは別のものを感じ取らなくてはならないし、自然とそうなるはずである。また同じようなことをやっていたのでは、後発であるあなたが勝てる、つまり存在意義を示せるはずがない。もっともこのことは数学に限らず、学術一般に、もっといえば創作一般にも言えそうなことである。

 話は戻るが、勉強することはやはり研究において必要で、どんな天才でもこの過程を無視することはできない。もっとも天才は無視しているかの如くスピードで駆け抜け、かつ常人よりはるかに深い理解をしていくが、それでも多くの時間を勉強に割く。勉強、勉強、というが、修士で行うそれは「先行研究の理解」といってよいだろう。それを行う必要性は大きく二つあり、
・用語などを知り、人に話が伝わるようにする
・自分の論文は既知の結果ではないことを確かめる
である。特に後段は重要で、一生懸命考えた結果が、じつはほかの人の既に発表された結果だったり、酷いと真部分集合だったりする。また既に知られている結果とは、ほかの人が何百時間とかけて作った強力な武器であり、しかも全世界に行きわたる武器である。つまり、活用できないことはとんでもなく不利な戦いを強いられ、また先ほどのような車輪の再発明にも繋がる。そしてほかの結果と自分の結果との関係性を指摘することは、研究自体の価値が理解されるためにも必須だ。数学に限らず、現代の科学はかなり多岐に渡りかつ細分化されているので、価値ある研究で既存の結果との関連性が指摘できないということはあり得ないと思う。
 ここまでは学部までの勉強との目的の違いを述べたが、質的な違いも挙げておきたい。私の知る限り学部の科目に関する本は、どれも邦書ないし洋書の翻訳が複数冊出版されており、そのどれをめくっても同じような内容ないし数学的に同値な内容が書かれているといった状況だと思う。学習する内容が発見されたのは新しくとも1950年以前で、発見されてから実務に応用されて久しいものばかりで、教科書も競って教育的配慮がなされている。練習問題もついてる(ただし全てに正しい答えが付いているとは限らない)。仮に一冊で分からなくても、ほかの本を読んだらわかる場合もあれば、相談する相手も数学科に所属していればたくさんいるのが通常だ。
 一方、研究のための勉強というのは、先に挙げた性質をほぼ持たない。基本的には論文をもって勉強することになる。ある程度結果をまとめたものが本になっている場合もあるが(当然洋書)、それだけ最先端への道は遠いという意味でもある。また新たに定義された概念については、自分で成り立つ例や成り立たない例を考えて、概念に慣れ親しむ必要がある(これ自体も自らのcreativity を磨くために重要なことでもある)。言葉を変えて説明されているような文章もあまりなく、相談する相手もごくごく限られている。また論文自体が間違っていることもしばしばあり、わかった時には烈火のごとき怒りで身が震えそうになる。また、結果に至るまでにすごく遠回りをしたり、結果としての定理が不完全だったりする。例えば4つに分類されているが、実は整理すると3つにできたり、不要な仮定が含まれていたりする。要するに学部までの勉強と比べ、非効率的にならざるを得ない。また後世の人たちは、より効率的な勉強法で、洗練された結果を学ぶので、速く結果に結びつけなければ、あんまり意味のない時間を過ごしたことになる。

 修士に比べると、学部の頃の勉強は、”自分が賢くなったような感覚”を多分に与えてくれたように思う。知識の量という意味では間違いないし、数学科の学部卒を名乗る以上、どれもこれも知っておくべきことばかりなのだが、どれだけしょぼくてもいいから、早いうちから既存の集合知にプラスワンしようとする感覚を養っておくべきだったなと振り返る。それが可能なほど学部の数学を理解できているかというと怪しいのだが、アカデミアを目指すにしても、実社会で活躍するにしても、この類の喜びと苦しみを理解することは大切であり、価値であることは間違いない。

追記2019/3/9
2本目の動画

www.youtube.com